岸優太の(個人的な)日記

岸優太さんについてまとめたり、想いをぶつけたり。資料は布教用などにどうぞ。

運命を手繰り寄せ、夢を描き続ける岸優太の話

 

私が書いた伝記という名の、備忘録。

気にしたら負け。

 

 


事務所に入ったのは中学二年生の7月20日、当時は野球をしていた、ただの丸坊主の男の子だった。突然呼ばれた今をときめくアイドルが歌うステージの後ろで、覚えたてのダンスを、小さい身体で全力で踊っていた。何が良いのか何が悪いのかよくわからなかったが、今自分がすべきことなんだと、当時ながらに考えて、全力で踊っていた。

それから、時々呼ばれてはダンスを覚えてステージで踊る生活、段々と周りの見知った顔はいなくなっていった。同じ時期に入った人はいなくなって、また新しい人たちが次々と入ってきた。それ繰り返し、できた友達はいなくなることの方が多かったのかもしれない。今の彼が置かれてる立場が分かってなかったが、彼は呼ばれればそれに全力で応えたいと思っていた。いつだったか、とあるステージでいつものようにガムシャラに踊っていた時だった。その人は彼のことを認識していなかったし、指を刺されて何番のやつ!とかぐらいにしか言われなかった。それでも、いいぞ!その一言で努力は報われるんだと感じた。この時すでに、彼はよくわからない状況なんて思ってなかった。人前で仕事をする人になった、そう思っていたのかもしれない。

後からわかった話だが、周りのみんなはやめたくていなくなったわけではないのだと。いらない、そう言われたのだと。その時、彼は無意識に思ったのかもしれない。

「本気でやらない奴は、いらない」

のだと。

 

 

 

部活動をやめて、踊ることに楽しさを覚えていた時だった。後輩が多くなって、彼は前の方で踊れるようになっていた。楽しくて仕方がなかった。みんなが彼の真似をしたり、彼に教えを乞うたりと、彼はいつの間にか中心人物となっていた。

先輩のステージで踊ったり、バライティ番組でトークをしたり、彼は何だか仕事が楽しくなっていた。彼を慕ってくれる後輩は何人もいたが、特に慕ってくれる子が数人、弟のように彼のことを「岸くん!」と呼ぶ。後ろをついて回って、彼を本当のお兄さんのように慕っていた。みんなの憧れだった彼は、仕事に誇りを持つようになった。

意識が変わってからは、自信を持って仕事に打ち込んだ。ダンスを褒めてくれる人がいて、それに答えれば仕事の数も増えていく。努力が報われて形になる事が嬉しかった。

 


一人、佐藤勝利という後輩がいた。勝利は彼をとても慕って、お兄さんのように甘えていた。勝利は事務所に入ったのは彼の一年後で、何もかもを彼に教わったという。ダンスも彼を真似したし、バライティのトークも彼を見習った。芸能界で初めて出来た友達、親友は間違いなく彼だと、勝利は笑顔に語っていた。

 


そんな勝利が、気づけばずっと前を歩いていた。数日前まで、隣を歩いていた気がしたのに。彼が手を伸ばしても届かない場所を、勝利が立っていた。

彼が、16歳の誕生日だった。実に残酷な運命だ。

白い衣装に赤のメンバーカラーを身につけて、可愛らしい声でセンターで歌う勝利のちょうど後ろで、彼はその背中をずっと見ていた。言われた通り、勝利の影を演じるように寸分変わらないダンスを披露して、同じくらいの意識で、ステージに立った。

ステージのライトは、勝利を照らし続けた。彼と違う、右手のサイズほどしかないマイクは、勝利との差をマジマジと見せつけるものでしかなかった。

 


同じように仕事をしていた筈なのに。レッスンにも毎日通って、覚えるのは遅くとも完璧なものを披露していたつもりだった。それでも、勝利の持つ天才的なものに、彼は勝てなかった。そればかりか、彼よりも遅く入った後輩たちが同じようにデビューし、ポツンと、取り残されたような気分になった。

楽しかった仕事が、大嫌いになった。全力で挑んで、それに向けて努力も惜しまなかったのに、彼はそれぱったりとやめてしまった。何に対しても、えー、と言ってしまう。

それでも、彼は仕事に呼ばれ続けていた。何故だろうか、そんな彼を見捨てなかったのは誰なのかもわからない。それでも、こんな努力をしていない彼は、入っては辞めていく後輩を見て、嫌になった。努力は実らないんだと、初めて痛感した。

彼のことを慕っていた神宮寺勇太岩橋玄樹も、バックダンサーグループの専属メンバーとして頭角を表していた。後輩だった宮近海人、阿部顕嵐も同様だった。何か間違っていたんだろうか、彼はそう思うことしかできなかった。

 


それでも彼は仕事を続けた。意識の低さはあったものの、日常となっていたダンスレッスンに行けば、気が紛れた。何かを忘れるように、入所当時のようにガムシャラに踊って、また少しずつ前で踊って、マイクも持てるようになっていた。

勝利が浴びていたスポットライトの10分の1くらいの明るさかもしれない。それでも彼は、確実に前に歩いていた。努力は報われる、そう思うことも嫌いじゃなくなった。

 


勝利のバックで踊りながらも、後輩たちと肩を並べてステージに立つ。もう、プライドなんかは彼の中ではなかったのかもしれない。たくさん辞める後輩を見てきた、少しサボっただけでも彼は仕事をもらえていたのに。実力社会だとわかってはいたが、実際に目の当たりにしたら、現実は残酷なのだと思い知った。怖くなった、いらないと言われることが。もし彼が、いなくなった後輩を見送る時に感じた感情を向けられたと考えるだけで、恐怖が頭から離れなかった。彼はきっと、今の自分にはプライドなんていらないものだと知った。仕事に責任と誇りを持つべきなんだと。

 


少しずつ、舞台の仕事も増え始めた。普通の高校生活なんか送れていなかった。それがよかったのかはわからないが、彼はそうでもしなきゃいけない、とも思っていたのかもしれない。通信制の高校で、休みは稽古やステージに明け暮れた。少しずつ、昔の感覚を取り戻していた。やはり努力した分だけ報われる、そう思い始めていた。

 


もうすぐ高校三年生になろうという年度末、彼は大きな仕事をもらった。先輩の堂本光一さんが長年続けている舞台「Endless SHOCK」の出演だった。演技は舞台を多少やった程度で、何もかもが初めてだった。

稽古が始まった初日、彼の心はまた折れた。初めて、努力しても無理かもしれないと、ポキッと音が出た。何が正解かもわからず、彼は人目を気にせずに稽古場で泣き崩れる。訳がわからなかった。できないから悔しいのか、こんなの無理だと諦めたのか、彼は今まで生きてきた中で一番泣いた出来事にあげるほど、大泣きをした。

それでも、何十公演にも及ぶ舞台を小さな身体で彼はやりきり、18歳の誕生日、9月29日に舞台の千秋楽を迎えることができた。もはや、運命かのような日付だ。また彼は涙が溢れて、のちにこれほどの経験をしたのは、彼の中では一番の財産だと語る。

 


その頃には、初出演ドラマも最終回を迎えていた。

とあるドラマのオーディションの話をいただき、彼は腕試しだとオーディションを受け、合格した。初めて受かった役は、先輩の菊池風磨の幼馴染みという役どころだった。

不良とはどういうものか分からなくて、想像したのはコンビニ前にたむろしている光景のみだった。コンビニに今の時代に行ったところで会えるわけでもなかったが。

彼は初めての現場、雰囲気に緊張しつつも見知った先輩方や、ずっと彼を近くで見てくれていた菊池風磨の存在はデカかった。不安で仕方がなかった、オーディションとはいえ事務所の力で入れたのも事実で、彼自身の力が正当化されているのかさえわからなかった。しょうがない、そう実力に見切りをつけられるのだけは嫌だった。ただひたすら役に向き合って、苦手な台詞覚えも頑張って。彼自身とはかけ離れていた役にどう入り込むかを模索した。

終わってみれば、緊張の糸が途切れたように脱力さえした。おめでとう、お疲れ様、凄かったよ、周りが口にする感想が全身を震わせたに違いない。演技が楽しいと感じた、第一歩だろうか。

 


ドラマが終わって、いろんなステージに立った。SHOCKの舞台も自信を持って挑みたかったし、映画版の仮面ティーチャーの撮影も全力で臨んだ。

年度が変わってからは、バライティにも頻繁に出るようになった。多分、めちゃくちゃ仕事が忙しかったと思う。入所した頃から出ていた少年倶楽部を必ず2月か5月まで、舞台の影響で休む。

「SHOCKでの岸くんは違って見えた」そんな言葉はきっと、数ヶ月休んでいた少クラで彼自身も感じただろう。

 


今、目の前にある自分が掴める糸を、ひたすら離さないように、一生懸命手繰り寄せた。

そんな時だった。仮面ティーチャーで監督だった方から、お声がかかった。とある恋愛ドラマの役だ。

 


19歳の夏、のちに彼を語る上で欠かせない作品の一つと出会う。先輩が主役を演じた作品の、過去のお話だ。主役の幼馴染みで、お調子者な男の子、ドラマオリジナルの役だった。

凄かった、それもう、彼が生きて、消えていくまで全ての時間が、綺麗に見えるほど。儚い感情にも種類があるが、彼はきっと、夏の儚い気持ちが、そのまま具現化したのではないだろうか。夏になると思い出す、彼に会いたくなる、無邪気に笑って、全部に全力で、真っ直ぐな彼に会いたくなる。ファンのみんなは、誰もがそう思った。

そこからは、演技の仕事が多くいただけるようになった。脚本家が有名な、少し特殊な作品では「初主演」に抜擢され、また違う彼の魅力を見せてくれた。

主演という大きな役割と、記憶が邪魔する複雑な役柄に、彼は真っ向から挑み演じ切った。終わった時には、やっぱり涙が流れていた。

 


そして、2015年の夏に彼ははじめての大きなグループに所属する。

Mr.KING VS Mr.Prince」

のちの、King & Princeの前身ユニットだ。

テレ朝のイベントの応援サポーターを務め、オリジナル曲も与えられた。テレビに出る回数も、自分が前に出てマイクを持てる回数も増えた。一つ、また一つと彼の自信が固まっていくような気がしていた。

演技の仕事は継続しており、先輩ドラマの親友役として出れることができた。映画も決まり、そのセリフの量も増えていた。彼の実力が認められたような、期待されているような気分だったかもしれない。

 


しかし、翌年の2016年、舞台「Endless SHOCK」に彼の名前はなかった。直接、彼には「出演はない」という言葉を座長からもらっていた。それでも彼は「また出たい」という意思表示をした。舞台が楽しいということ、その全てを教えてくれたものだった。三年間、彼にとってはどのように映っていたのだろう。

座長から与えられた、一つの試練のようなものだったのかだろうか。このままでは成長できないという「卒業」だったのだろうか。

今じゃ、若いJr.が出るのは「そうなんだ」となった作品だが、その始まりは「彼」であったこと。彼が出演したこと、それはきっと彼が得られた経験の他にもいろんなものが、大きく動いた運命だったに違いない。

 


光一さんからもらった「舞台映えする見せ方を意識しなさい」という言葉、きっと彼のこれからを作るものになったはず。

 


2016年の冬、彼の姿は帝劇になかった。そんなことがある?、そんな衝撃だったに違いない。

それでも春、Prince三人に冠番組の仕事が与えられた。前回番組の後続だ、選ばれたようなものだっただろう。

毎年のようなジャニーズ銀座に、ガムシャラ・サマーステーションの公演。

それなのに、夏の大きなプロジェクトに彼らの名前はなかった。また、後輩が前に出ていると、彼は思ったかもしれない。悔しかったかもしれない、無理なのかもしれない、それでも彼は、折れなかった。

 


この時代、彼はどのような心境であったのかを語ったことはない。どんなことを考えて、仕事をしていたのかも分からない。けれど、Princeの二人が「岸くんだけ折れなかった」それは、彼が強くなった証と、彼だからこそ強く心を持てたのかもしれないと感じた。

 


そんな秋、博多座と大阪で舞台の上演が決定する。Prince三人は選ばれた。彼の立ち位置は、前だった。座長の隣に立つ姿があった。尊敬する先輩の言葉を刻んで踊ったに違いない。きっと綺麗だったに違いない。

 


2017年、冬の帝劇に彼の名前はあった。

連日、情報番組ではジャニーズの舞台が開幕した事を知らせる。その時に見せた「俺の夢」は、彼が三年間見てきたものを、まさしく「具現化」したようなものだった。

「帝国劇場で、輝ける堂本光一くんみたいになりたいです」

こんなにまっすぐで、わかりやすくて、キラキラな夢

叶えてあげたい、そう強く思えたに違いない。

 


昨年から持っていた番組は継続、少しずつ「六人曲」も増えた。夏に呼ばれはしなかっけれど、昨年に比べたらもっと強くなったと胸を張れただろう。

 


そして秋の帝劇、Jr.だけでの舞台が開幕した。

主役ではなかった、けれど、二つのグループが中心だっただろう。

 


そこからは忙しかった。ソロコンがグループごと週末に行われたり、月一で、彼ら「六人」のバライティー番組も放送されていた。

11月には、写真集を発売し、12月には単独コンサートも行なった。

 


そして2018年の冬、帝劇に「六人」がいた。

運命の1月17日、デビュー発表の日だった。一つの目標が叶ったのだ。

事務所に入って、少しずつ前に出てこれるようになって。そしたら後輩たちは自分を追い抜くようにドンドン前に出て、輝いて。それでも、今自分が持ち合わせている糸を何重にも自分に巻きつけて、ここが俺の場所であると自分を誇示するように立ち続けて。

彼は「六人」でデビューすることが決まった。

デビューの日、彼は「リーダー」の指名を受けた。彼は驚いていたけれど、ファンはよくわかってるってことじゃないかな。自分のファン以外にも「六人が好き」なファンには、彼という存在がどういう人なのかを。

 


そこからは、目まぐるしかっただろう。

デビューCDは驚異の売り上げをたたき出し、瞬く間に彼らの名前は世間に広まった。たくさんの音楽番組に出ては「名刺がわり」のデビュー曲を歌い、バライティーに出れば、想像もつかないような発言をして笑いを掻っ攫っていった。一人一人の名前は知らなくとも「キンプリ」という言葉は、世間に広まるのは遅くなかった。

 


そんな中の、仲間の休養は、どれほどものだったのだろう。彼は強く言った「彼が帰ってくるまで」と。これほど強く言える彼は、何を見据えていたのだろう。

 


12月にはお世話になった先輩の映画に出演もし、デビューの年とは思えないほどの飛躍をした。

そして冬、彼らは大きな年末歌番組に出演し、事務所最後のお祭りではトップバッターを務めた。

冬の帝劇ではグループとして主役に抜擢され、ソロの見せ場も多くあった。

 


年度が変わり、一躍国民的アイドルのステージに立った彼らの二年目は大きかった。

新曲を出せば音楽番組に出て、個人でもバライティー番組で名を馳せていた。

 


そんなある日の七月、彼に大きな仕事が舞い込んだ。

舞台「DREAM BOYS」

彼は、歴史ある舞台の「4代目座長」に選ばれた。キャスティングは、全て社長が行なったと言っていた。

「無理だったらやめてもいいよ」

そんな言葉を言われながらに、社長がくれたのは自分の指針を大きく示してくれたかけがえのない舞台。できると思って与えた仕事だっただろうに、そんな言葉を伝えた社長は、どんな気持ちで彼に「試練」を与えたのか。

彼はそれを「一番の財産」だと語る程にやり遂げ、きっと社長が思い描いた以上に成長したのだろう。

 

制作発表が行われ、彼はキラキラとした笑顔で記者の前で話をした。

「名だたる大先輩たちが作ってきた舞台なので、その伝統を汚さぬよう、新しい風を吹かせたい」

それはまるで、自分がSHOCKに出てもたらしたような風かもしれない。

 

その四日後、社長が逝去。

彼は文字通り「社長に選ばれた最後の座長」になった。社長から「無理だったらやめてもいいよ」なんて言われはしない。どんな言葉を言われて、この役を受け取ったのかな。

社長からの最後の試練は、今の彼を作り上げた同じ「舞台」だった。

「夢や挫折を描く舞台の主人公」最高の運命だ。

 

 

社長がいない初めての舞台、彼はずっと座長としてカンパニーの手を引っ張り続けた。彼の隣には、ずっと前から一緒にやってきた同じ名前を持つ、勇ましい彼がいたから。彼がどんなに後退りしても、勇ましく背中を押して、見守ってくれていたから。

彼は帝国劇場で、両手を広げて笑顔で輝いた。

 


彼は、夢を一つ、叶えられたと思ったかな。

「終わらない、夢を描こう」まだまだと、宙を見上げているのかな。